個人的なプロフィール

株式会社ユニサービス
代表取締役 新田祐子
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1965年秋田県横手市生まれ
横手南小学校、南中学校、県立城南高校を卒業。
1988年島根大学農学部環境保全学科卒業。
卒論テーマ「紫外線除去フィルムによる野菜・花の病害防除
1988年株式会社ソフトウエア設計(東京、代々木)に入社
1991年株式会社ASE(札幌)に入社
1992年NEC海外部の仕事で中国北京の開発チームに1年間、システム開発を指導。
1995年個人事業ユニサービス開業(秋田県、横手市)
2001年ロシア、ノボシビルスク工科大学の日本語講師

 昭和59年に秋田県の女子高を卒業した後、「定休日もボーナスもある農業法人が日本の農業を救う」 という信念のもと、島根大学の農学部に進学しました。しかし、大学卒業時は、まだ「農業=農家」が常識、 「農業やるなら農家の嫁に行け」という風潮で、農業法人につながる就職口はありませんでした。 そこで 「いつか、会社員が田畑の仕事をする時代が来る、コンピュータ管理された農場で野菜が管理栽培される時代が来る」 と信じ、その時に役立つよう、ソフトウエア開発の会社に就職しました。

 ところが、大学の専門とは畑違いであったにもかかわらず、 プログラム言語を駆使してゼロからシステムを組み立てるソフトウエア開発の面白さに取りつかれ、 途中、農業計測機器の会社に転職して農業への回帰を図ったものの、 モノ作りの面白さが忘れられずシステム開発の会社に再転職し、 結局13年ほどIT(情報技術)分野で仕事を続けました。その間、自治体の住民税・国保のシステムや、 県警の交通管理システム、最新理論や先端技術を実証・実用化する研究開発など、 大手IT企業の下請(=実行部隊)として様々な開発プロジェクトを担当しました。

 さまざまな開発を経験する中で、優れた技術者や管理者が使い潰されて組織を離れ、 その穴を埋められずにプロジェクトが崩壊していく現場を何度か目にしました。 プロジェクトの成功は、たまたま優秀な管理者や技術者がいるかいないかに左右され、 仮に成功していても、そのキーパーソンが抜ければ収拾がつかなくなる。 コンピューターシステムのライフタイム(稼働期間)は数年から数十年と長いはずなので、 一時的に優秀な人を集めて優れたシステムを作るのではなく、 普通の能力(義務教育卒業程度)の人を使って安定したシステムを作る組織力が必要ではないか、 という問題意識を持ちました。

 もともと、外国や国際関係には全く興味のなかった私ですが、 1991年にロシア人技術者と一緒に働いたことがきっかけで、 ロシア(旧ソ連)のシステム開発に興味を持ち始めました。 「日本の無人ロケットは発射前に失敗するのに、ソ連のロケットは人間を載せて宇宙を飛んでいる。 この違いは何なのか。いつかロシアのIT企業で、システム開発の現場を体験したい」という無謀な夢を持ちました。

 座右の銘
 夢は追いかけるより、胸に秘めて、待てばいい −−(鈴木康博、「挽歌」より)

外国に行く練習 −− 北京図書館のシステム開発プロジェクトに志願し、1992年に1年間、 中国、北京に滞在しました。 約20名からなる中国人の開発チームを指導し、複数のサブシステムからなる総合図書館システムを開発しました。 適切なプロジェクト管理、開発手法、要員教育を実施して、普通の能力の人を使って安定したシステムを作る、 という課題を達成し、ノウハウを蓄積することができました。

外国に行く練習 −− この年齢からロシア語を勉強しても、それを武器にロシアに乗り込めるほどには上達しない。 日本語を勉強し、日本語教師として乗り込む方がつぶしがきく、と考え、「日本語教育能力試験」を受験し、 1998年に合格しました。

外国に行く準備 −− チャンスというものは、いろいろなところに転がっているものです。 しかし、そのチャンスに遭遇したときに自分の準備ができていなければ、 ベストタイミングでそのチャンスを活用することはできません。 例えば、会社員であれば、会社を辞めるか辞めないか、という迷いや手続きに足を取られてチャンスを逃すかもしれないし、 結婚の予定があれば海外渡航などできるはずもありません。

そのように考え、いつでもロシアに行けるよう、会社を辞めて、1997年、実家(秋田県横手市)に戻り、 個人事業ユニサービス(プログラム開発請負事業)を立ち上げ、資金と自由を確保しました。 また、結婚につながるような交際も避けました。 ロシアに行ける目途が全く存在せず、行きたい、とも、行ける、とも思わないながら、準備だけはしておこう、 というのが私の生き方でした。

そして「ロシアに行く」チャンスは、2000年に見つかりました。 ロシアのNovosibirsk(ノボシビルスク)工科大学が日本語講師を募集している、 という情報をつかんだのです。早速応募して採用が決まりました。 約半年かけて事業をたたみ、2001年9月、初めてロシアのノボシビルスクに渡航しました。

 ロシアのNovosibirskに到着したのは、2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件の日でした。 以降、2008年の4月に帰国するまで、約6年半、Novosibirskに滞在しました。
★ロシア、ノボシビルスク紹介記事

ロシア滞在中の職歴
  • 2001年〜 Novosibirsk工科大学の日本語講師
  • 2002年〜 Novosibirsk総合大学(および教育大学、国際関係大学)の日本語講師
  • 2002年〜 Novosoft Ltd.(ロシア大手IT企業)の日本営業部
    ★当時のインタビュー記事
    ★2002年当時の会社紹介記事
  • 2004年〜 Fortess Ltd.(ロシア中堅IT企業)の日本営業部
    ★2004年当時の会社紹介記事
  • 2005年〜 Sumitrade(日本の商社のロシア法人)のIT事業部
  • 2006年〜 NST(日本のIT企業)のロシア担当
  • 2003年〜 シベリアのべレスタ - 白樺工芸品の卸販売
    ★ベレスタの説明
  • 2004年〜 英日翻訳、露日翻訳、現地ガイド
  • 2005年〜 ロシア関連情報のリサーチ

 「ロシアの常識」を知らずに過ごした、前半の4年間は、様々なトラブルに見舞われました。  2回の盗難被害、数度の失職、アパートを追い出され(転居6回)、病気入院、滞在許可取り消し・・・。  安定した組織のサポートを受けずに、ロシアに住み続けるには、幾多の障害がありました。
 障害を乗り越えるたび、だんだんに「ロシアの常識」を理解し、2005年以降は、 会社組織に依存せずに個人事業だけで生計を立てられるようになり、生活は安定してきました。もう怖いものなしです。

 「両親の健康問題の悪化」という脅しを受けて、2008年の春、日本に帰国しました(帰国後、両親の健康は速やかに回復)。 ロシアで始めた、白樺工芸品の卸販売や、ロシア関連情報リサーチの仕事を日本でも継続することとし、株式会社を立ち上げ、 現在に至っております。

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